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ポール・ボルカーの経歴と実績。伝説のFRB議長は金利を約20%にまで上げ、インフレを退治した。

ボルカーの実績の概要

伝説のFRB議長「ポール・ボルカー」についてまとめました。ボルカーといえば、インフレ率が10%を超え制御不能に陥っていた時期に、政策金利を最大20%を超える水準にまで引き上げ、批判を浴びながらもインフレを退治したことで知られるFRB議長です。


ボルカーはFRB議長としての実績が知られていますが、彼の人生を見ると、それ以外にも様々な実績を残しています。彼の経歴はアメリ財務省での実績や、FRB議長を務めたあとの規制改革を主導したことなど、伝説のFRB議長と言われるに相応しい実績を残しています。


ポール・ボルカーの経歴

・1927年9月5日 ボルカー誕生

・1945〜49年 プリンストン大学 

・1949〜52年 ハーバード大学院、イギリス留学

・1952〜57年 ニューヨーク連銀

・1957〜62年 チェース・マンハッタン銀行

・1962〜65年 財務省

・1965〜1968年 チェース・マンハッタン銀行

・1969〜74年 財務省次官

・1975〜79年 ニューヨーク連銀総裁

・1979〜87年 FRB議長

・2019年12月8日 死去


FRB議長として14%に達したインフレを退治する

ボルカーを知るには、まずは有名なFRB議長時代の話から。


アメリカは1970年代始めから1984年頃まで高インフレに見舞われました。10年以上、物価が上昇を続けアメリカ国民を苦しめたのです。インフレ率は最高で約14%に達しました。この長く激しいインフレを抑えたのがポール・ボルカーです。ボルカーはインフレを抑えるのに、非常に強力な手段を用いました。政策金利は19.08%に達し、景気を抑制し、インフレを退治したのです。


今の日本の政策金利が0.25%ですから、この高さがよくわかります。アメリカでも政策金利が約20%まで上昇したのは、このときが最初で最後です。ちなみにボルカー以降、政策金利は上下動を繰り返しながら、なだらかに右肩下がりを続けました。


ボルカーが政策金利を約20%にまで上昇させたとき、当然ながら政治家や失業者から抗議の声が上がりました。失業率は1982年11月に10.8%に達したのです。


政策金利を引き上げると、企業が銀行からお金を借りるとき、人々が住宅ローンを借りるとき、また借金の利息を返すとき、これらの負担は高くなります。ですから人々は消費できず、需要も落ち込み、モノ・サービスの値段が安くなる、企業収益も悪化する、という悪循環に陥り、景気は後退します。インフレを退治するにはこの過程を通るしかありません。


先程も書きましたが、インフレを退治する過程で失業率の悪化や企業収益の悪化は避けて通れません。むしろ失業率の悪化や企業収益の悪化がなければ、インフレは退治できないのです。しかし失業した人や国民の人気を取りたい政治家はボルカーを攻撃します。ボルカー回顧録によるとボルカー宛の抗議の手紙がFRBに多く届いたとあります。


しかしボルカーはインフレが安定的な低さを実現するまで、手を緩めることはありませんでした。実際のところ、1983年の8月ころにはインフレ率の鈍化は見えていましたが、ボルカーは政策金利を逆に上げています。インフレ退治をするには簡単に引き下がってはいけないことを知っていたからです。ボルカー前の1970年代は一度収まったとインフレが、政策金利を引き下げた後に再び上昇することを何度か繰り返しています。


その歴史を知っていたので、ボルカーはインフレを根治するするために、批判を浴びても引き下がることなく、政策金利を長い期間、高いままにしておいています。ボルカーがインフレを退治して以降は、インフレ率も安定的に推移し、株価も長期的に上昇しています。この長期的な繁栄はボルカーが怯むことなくインフレを退治した結果と言えます。


参考図書、サイト

「ボルカー回顧録

Paul A. Volcker | Federal Reserve History